はじめに

戦後の復興を契機に、1947年に労働省が創設され、旧憲法に基づく帝国議会によって労働者保護を目的に労働基準法が制定されました。この労働者保護を目的というのは、日本国憲法第27条第2項において規定されている「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」を受けており、全ての労働者に対し「健康で文化的な最低限度の生活」保障するということを指しています。成立当時の労働基準法では、労働時間が1日8時間・週48時間であり、時間外労働・深夜労働・休日労働についての割増賃金率は25%と定め、最低限度の労働者の権利を確立させたのです。

そして、労働基準法は、現在に至るまで日本の労働情勢に沿って度々法改正が行われてきた訳ですが、その変遷を辿ることは、「故きを温ねて新しきを知る」という言葉があるように、社会保険労務士として業を成す私にとって活かせるものだと思っています。今なら当たり前だと思うことも、当時は、目新しさもあったかもしれません。そのような事を考えて執筆すること自体、社会保険労務士としての喜びだとも感じています。

また、社会保険労務士は、「ヒト・モノ・カネ・情報」という経営資源のうち、「ヒト」を扱う専門家です。今後の日本社会で唯一減少していくと言われる「ヒト」ですが、組織・労働環境の整備を行う労務管理とは密接な関係があります。その労務管理の歴史を追求することは、これまで人事労務に関する諸問題や就業規則、労使協定の作成・改定などに携わってきた社会保険労務士が発信することが役目だとも考えています。

そこで、小林労務では「労務管理の歴史」として、職員に各節を担当してもらい、労務管理の根幹である労働基準法をはじめ、社会保険労務士業に係る法令について整理していくこととしました。

第1章では、労務管理の基本である労働基準法の成り立ちとその変遷を追っていき、約半年かけて労務管理の歴史を紐解く始まりにしたいと考えています。

 

第1節 労働基準法成立

第2節 労働安全衛生法の制定に伴う改正

第3節 男女雇用機会均等法の制定に伴う改正

第4節 労働時間法制の改正

第5節 裁量労働制の改正

第6節 働き方改革関連の改正

第7節 総括

 

令和5年6月

千鳥ヶ淵研究室 主任研究員 小松 容己

第1章第1節 労働基準法成立

第1章 労務管理の歴史

第1節 労働基準法成立

千鳥ヶ淵研究室 主任研究員 遠藤恵

本節では、労働基準法の先駆けである工場法をふりかえりながら、労働基準法制定の背景を整理する。さらに、労働者保護の実効性を担保するという労働基準行政の基本的な役割を担う労働基準監督官制度についても触れていくこととする。

1、労働基準法とは

憲法第25条第1項では、生存権を定め、すべての国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障している。さらに、憲法第27条第2項では、「勤労条件の基準は法律で定める」としており、この両規定を根拠として立法されたのが労働基準法である。

「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。」-労働基準法第1条第1項より-

この労働基準法が成立する以前、戦前のわが国では、労働者を保護する労働法の整備が不十分であった。そのため、労働者は過酷な労働条件で拘束されるなど、労働力を一方的に搾取される悲惨な状況下に置かれていた。労働基準法は、全労働者に適用される統一的・根本的な労働に関する法律が存在していなかったこともあり、昭和22年に憲法が制定されたことを受け立法化されたものである。これにより、生存権の保障・契約自由の原則の修正・社会的弱者としての労働者の権利の保護が徹底されることとなり、人間性を無視した労働条件に基づく労働の提供を強制することは法律によって規制されることになった。たとえば、法の根本原則の一つに、「契約自由の原則」があるが、労働契約については労働基準法により大きく修正が加えられており、当事者間の合意があっても労働基準法の規定に反する特約を設けることができないとされている。つまり、労働者の権利を保護するための強行法規としての特徴を持っている。なお、労働基準法では、基本原則である7つに加えて、労働者と使用者の定義、労働契約(労働時間、賃金、年次有給休暇、年少者・妊婦、就業規則等)について明確に定められている。
以降では、このような労働基準法が、どのような時代背景のもと制定されたのか整理してみることとする。

2、戦前日本と連合軍総司令部による民主化政策 ~労働三法の成立~

労働基準法は、戦後日本に対する連合軍総司令部(以下、「GHQ」とする。)の改革の一環として制定された。
日本において、労働関係の代表的な法律である労働組合法・労働関係調整法・労働基準法を「労働三法」と呼んでいる。なかでも労働組合法は、日本国憲法施行より早い昭和20年に制定された。憲法よりも早く制定されたのは、労働組合結成の促進がアメリカ占領軍の民主化政策の一つであったからだといえる。昭和20年8月15日に終戦となり、日本は連合国に占領されることになり、8月末にアメリカのダグラス・マッカーサー元帥が占領政策を実施する連合国軍最高司令官として来日した。そして、マッカーサー元帥を最高権力者としてGHQが作られ、その意向が日本政府を通じて実施されていた。10月、マッカーサー元帥はポツダム宣言に基づき占領政策の基本を民主化政策「五大改革指令」として表明。その五大改革指令の一つ目に選挙権付与による婦人の解放、二つ目は自由主義的教育を行うための学校の開設(教育改革)、三つ目に検察・警察制度の改革があり、思想弾圧である治安維持法や特別高等警察を廃止、続いて、経済機構の民主化が挙げられ、財閥解体、農地改革・地主制度解体を行った。そして、五つ目が労働組合の結成であった。その後、労働基準法は、昭和22年、廃止直前の旧憲法に基づく帝国議会によって制定された。提案理由としては、【昭和22年第92帝国議会 労働基準法提案理由(抄)】において、「1919年以来の国際労働会議で最低基準として採択され、今日ひろくわが国においても理解されている8時間労働制、週休制、年次有給休暇制のごとき基本的な制度を一応の基準として、この法律の最低労働条件を定めたことであります。戦前わが国の労働条件が劣悪なことは、国際的にも顕著なものでありました。敗戦の結果荒廃に帰せるわが国の産業は、その負担力において著しく弱化していることは否めないのでありますが、政府としては、なお日本再建の重要な役割を担当する労働者に対して、国際的に是認されている基本的労働条件を保障し、もって労働者の心からなる協力を期待することが、日本の産業復興と国際社会への復帰を促進するゆえんであると信ずるのであります。」としている。
労働組合法の目的は、その第一条に「労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことを促進することにより労働者の地位を向上させること、労働者がその労働条件について交渉するために自ら代表者を選出することその他の団体行動を行うために自主的に労働組合を組織し、団結することを擁護すること並びに使用者と労働者との関係を規制する労働協約を締結するための団体交渉をすること及びその手続を助成すること」と定められている。そして、後に公布される日本国憲法28条で、労働三権・労働基本権といわれる団結権・団体交渉権・団体行動権(争議権)が保障されることになる。
労働関係調整法は、昭和21年に公布された。労働関係の公正な調整を図り、労働争議を予防し、または解決するための手続きを定めた法律である。争議行為が発生して社会生活に影響を与えるような場合には、労働委員会による裁定を行うことを規定している。労働委員会は、労働者の団結擁護・労働関係の公正な調整機能を目的とする行政委員会であり、使用者委員・労働者委員・公益委員が各同数で、国・地方公共団体に設置することが、労働組合法にさだめられている。
そして最後に制定されたのが労働基準法である。戦前の労働保護の基本法規であった工場法の保護対象は極めて限定的であったため、憲法27条「勤労権」の規定に基づいて制定された労働者のための保護法であり、労働条件の最低基準を定めることとされた。

当初の労働基準法は、
・1日8時間、週48時間の労働時間
・時間外労働、深夜労働、休日労働についての割増賃金(25%)
・4週間以内の期間を単位とする変形労働時間制(4週間を単位とし、1週間の労働時間が48時間を超えない場合は、特定の日又は週において、8時間又は48時間を超えて労働させることができる)を規定していた。
婦人及び年少労働者の保護行政も、労働基準法の施行により再度見直され、昭和22年に女子年少者労働基準規則が制定された。同年、労働省の新設とともに、婦人少年局が設置され、婦人の局長が誕生した。日本の行政機構の中で、女子と年少者を初めて専門に扱う部局の発足となり、ここで婦人少年行政はめざましく進展した。行政運営の中心としては、働く婦人の啓発、働く年少者の保護、婦人の地位の向上等に置かれた。昭和22年には働く年少者の保護運動が、同24年には婦人週間が、それぞれ開始した。これを契機とし、国際労働関係としては、昭和26年に国際労働機関(以下、「ILO」とする。)への再加盟が実現した。昭和13年にILOを脱退していた日本の、13年ぶりの復帰が認められた(昭和5年以降に入ると日本の中国大陸への侵略拡大に伴い国際的孤立が進み、昭和8年の国際連盟脱退に続き、昭和13年11月ILOに脱退通告がなされた(2年後に発効)。よって、昭和15年から昭和26年は脱退となった経緯がある)。

3、労働法の先駆けである工場法

ここでは、先に登場した工場法について触れる。
戦前の日本において労働法として定められていた工場法は、主に工場で働く女子や年少者の労働を規制したものであり、労働者全体の保護というよりは、国の発達のための良質な労働者の確保という意味合いが強いものとされていた。そのため労働者を保護するための法律としては不十分であり、労働環境は依然として劣悪なものであった。つまり、資本主義生産における労働力の階級的消耗を防ぐことを目的とした最低限の労働者保護規定に過ぎなかったといえる。
この工場法であるが、繊維産業における幼年工の就業時間制限などを目的として1802年(享和2年)に英国で制定された法律(「工場徒弟の健康および道徳の保護に関する法律」)が起源といわれている(英国政府は、1833年(天保4年)に工場法を制定)。以後、幼年工の雇用禁止、親権の制約、女性・少年工の労働時間制限、安全や衛生・保健に関する規制、そして工場監督官設置などが定められ、各国にも普及した。
日本では大正5年施行の工場法が最初である(明治44年第2次桂太郎内閣により公布)。工場法制定までの道のりを紹介すると、明治政府は、近代国家建設の過程において、英国等先進国に倣って早々に工場法の制定をめざし、明治30年より帝国議会への法案提出を開始した。以後、工場法案を何度か帝国議会に提出したものの、経済情勢、日露戦争、そして紡績業界の反対などにより、明治44年まで立法化されることはなかった、というものである。その後、大正8年ILO第1回総会で,労働時間を1日8時間、1週間48時間と定められたのを契機に、大正12年工場法が改正されたが、低水準そのものであり、昭和4年の改正でようやく年少者や女性の深夜業が禁止された。
なお、保護の内容については、工場法本則において、①最低入職年齢を12歳としたうえ、②15歳未満の者および「女子」について、最長労働時間を12時間とし、深夜業(午後10時から午前4時)を禁止し(例外と長期の適用猶予あり)、休憩の基準(6時間を超えるときは30分、10時間を超えるときは1時間)および休日の基準(毎月2回以上)を定め、一定の危険有害業務への就業を制限し、③工場における職工の安全衛生のための行政官庁の臨検・命令権と、④職工の業務上の傷病・死亡についての事業主の定額の扶助責任を定めました。そして、施行令において、⑤賃金の通貨払いや毎月1回以上支払いの原則、⑥常時50人以上使用の工場における就業規則作成・届出義務(大正12年改正)などが定められていた。

4、労働基準監督行政

最後に、法律上の労働者保護は、労働基準法によって明確に定められたが、実際に労働者保護の実効性を担保する役割を担っている労働基準監督行政に焦点を当てたいと思う。

労働保護法規の実効性を保障する労働基準監督制度は、イギリス(1833年(天保4年))をきっかけとして、19世紀にフランス(1874年(明治7年))やドイツ(1878年(明治11年))に普及した。日本では、書生・年少者を保護対象とした工場法が明治44年に公布され、大正5年に施行されたのち,同年に工場監督のシステムが誕生した。当時の工場監督は、地方行政(都道府県知事)の警務部の所掌であり、工場監督官は、独立官職ではなく警察官や事務官等が兼任補職されていた。監督業務が政治勢力や地方権力に左右されることも多く、労働者の保護には地域差が生じていたとされる。また、工場監督官には、臨検、尋問や注意の権限が与えられていたが、行政処分の権限はなく、行政指導の重点は注意や始末書等に置かれており、送検手続きがとられることはなかった。

第二次世界大戦後、昭和22年には労働基準法が制定されたことにより、日本の労働基準はILO条約に批准する基準にまで引上げられるとともに、労働基準監督制度が確立された。同法の制定当初における労働基準監督行政では、強制労働や中間搾取、女性・年少者の深夜業・長時間労働の排除に重点がおかれ、厳しい経済情勢下での賃金不払いや解雇等の法令違反の防止・是正のために厳しい監督指導が行われるようになった。
戦後、日本の労働基準監督行政は、労働基準法制定以来、一貫して労働者の保護を担っており、その行政運営の方針は,事業主の「納得と協力」を求めるソフト路線から「厳格な監督指導」を行うハード路線まで幅があるものの、労働条件確保のために積極的・計画的な労働基準監督行政が展開されていた。

5、おわりに

本節では、労働基準法制定までの歴史・経緯等を整理してきた。令和5年現在においては、平成31年4月から始まった働き方改革関連法も相まって、当たり前のように恵まれた労働環境を享受している。
戦時中は国家総動員法に基づいて、軍国主義のもと、労働力不足に対処するための統制や徴用、勤労動員が行われた歴史があった。戦時中のこうした体制は、民主化対策を進めるにはふさわしくないとして、戦時労務体制の廃止がGHQにより命じられ、新しい労働行政である労働三法が成立した。それと同時に労働基準監督行政も確立していくこととなり、現在の労働環境の基盤が作られた。労働基準法の成り立ちを整理してみることで、制定当時の労働施策に対する思いの深さを痛感し、労働基準法の根本となる理念を改めて自覚し、本章で取り上げる労務管理の歴史を紐解く一助になればと考える。

次節では、労働安全衛生法の制定に伴う改正について述べていくこととする。

 

 

 

【参考文献】

・岡実『工場法論』有斐閣(1913年10月)。
・中島寧綱『職業安定行政史』雇用問題研究会(昭和63年初版)。
・濱口桂一郎『日本の労働法政策』労働政策研究・研修機構(2018年10月30日)。
・濱口桂一郎「労働基準監督システムの1世紀」季刊労働法265号(2019年6月15日)。
・松本岩吉『労働基準法が世に出るまで』労務行政研究所(1981年2月)。
・竹前栄治『GHQ』岩波新書(1983年6月)。
・労働省労働基準局編『労働基準行政50年の回顧』日本労務研究会(1997年12月)。
・菅野和夫「特別寄稿 工場法施行百周年に寄せて」厚生労働(2016年8月)。
・池山聖子「労働基準監督行政の現状と課題―労働基準監督署の視点から」日本労働研究雑誌731号(2021年6月)。
・菅野和夫「労働法 第11版補正版(法律学講座双書)」弘文堂(2017年2月)。
・水町勇一郎『労働法 第7版』有斐閣(2018年3月)。
・水町勇一郎『詳解労働法 第2版』東京大学出版会(2021年9月)。
・荒木尚志『労働法 第5版』有斐閣(2022年12月)。
・西谷敏『労働法 第3版』日本評論社(2020年5月)。
・下井隆史『労働基準法(有斐閣法学叢書) 第5版』有斐閣(2019年6月)。
・中嶋滋「ILO設立100周年と問われる日本」季刊 現代の理論 第14号(2017年11月12日)、
http://gendainoriron.jp/vol.14/rostrum/ro02.php,(参照 2023-08-21)。
・ILO国際労働機構「国際労働基準」、https://www.ilo.org/tokyo/standards/lang–ja/index.htm,(参照 2023-08-21)。
・厚生労働省労働基準局提出資料「労働時間法制の主な改正経緯について 資料1」、https://www.mhlw.go.jp/content/11909500/000361723.pdf,(参照 2023-08-21)。
・首都圏建築産業ユニオン「公契約法・ILO第94号条約ができるまで」、http://www.kensetu-union.jp/?page_id=213,(参照 2023-08-21)。

 

第1章第2節 労働安全衛生法成立と改定の歴史

第1章 労務管理の歴史

第2節 労働安全衛生法成立と改定の歴史

千鳥ヶ淵研究室 研究員 長井千宙

労働安全衛生法(以下安衛法と記載)とは「職場における労働者の安全と健康を確保」するとともに「快適な職場環境を形成する」ことを目的に定められた法律であり、その成立と施行は昭和47年(1972年)のことであった。この目的の実現のため、同法では「職場内の安全管理体制の整備」、「安全衛生教育・健康診断などの実施」等を義務付けるよう規定しているが、このような規定やあるいは規定の改定にはその当時の社会背景が密接に関係していると考える。そこで、本節では規定や規定の改定の背景をみることで、安衛法の成立・改定の歴史とその歴史から今後どのような方向をたどるのか予測を試みる。

1、労働基準法としての「安全及び衛生」と安衛法の成立

第1節にも言及があったが、戦後日本の民主化政策の一環としてGHQにより推し進められた労働組合の結成の流れを汲み、昭和22年(1972年)に労働基準法が制定された。そして、その中に「安全及び衛生」(第5章)という章として組み込まれたのが安衛法の原型である。では、なぜ現在のように一つの法として成立するに至ったのか。成立要因として、水間氏は著書『労働法』(2007年初版 株式会社有斐閣)において、技術の高度化や生産過程の複雑化から上記労働基準法内の規定では対応が難しくなり、労働災害の増加に対してより多角的・総合的な法政策の必要性が高まったと述べている*1。この技術向上や生産過程云々については、年数から日本における高度経済成長であると考えることができる。つまり、安全衛生法成立の背景には高度経済成長期*2の存在がうかがえるということである。
高度経済成長期、日本は①米欧の技術導入②技術革新による大規模な設備投資と新産業開発に特に注力した。それは作業時間の短縮や人員の削減に大きく貢献した。しかし、技術導入・革新は実質的な労働時間の延長と個人の労働負荷の増大を招く側面があった。実際に、昭和30年(1955年)から昭和35年(1960年)までの所定労働時間は上昇推移であり、昭和35年以降は時間短縮の傾向が見られるものの、その傾向は大企業に限られ、中小企業については週の所定労働時間が45時間以上の階級に属する企業は90%前後と高水準で停滞している(1969年9月労働省「賃金労働時間制度総合調査」 )。こうした結果、労働者は慢性的な判断力の低下を訴えた。
また、機械装置の操作や扱う化学物質の複雑化も問題となっていた。機械の操作事故や使用する化学薬品による喘息発作や特異中毒、皮膚炎等新しい職業性中毒には以下の表1*4のようなものが指摘された。これらの増加した業務上疾病や職業病(註:)は先に述べた生産工程の複雑化による弊害であるといえる。

表1

以上のように、高度経済成長期を経て日本は新たに対応すべき労働環境の課題が発生した。その複雑な問題内容と発生件数の増加は、それを想定していない昭和22年当時のものでは限界があり、安衛法として単独で制定されるという流れは必然ではないかと考える。

2、現代の安衛法の改定 過重労働とメンタルヘルスを中心に

上記背景をもつ安衛法は、その成立からも世の変化に応じて新たに対応すべき労働環境の課題や労働災害に即してその都度変化・改定を必要とする現地主義的性格が他の法律よりも強いのではないだろうか。そのような性格を踏まえた上で、成立以降の現在までにいたるまで、法改正として大きく取り扱われてきたものに「過重労働とメンタルヘルス対策」が挙げられる。過重労働とメンタルヘルスの問題について、堀江氏は自身の研究である『産業医と労働安全法の歴史』において21世紀の労働衛生政策の重視項目であった事、また、実際にこの問題に対応すべく産業医職務の比重が増えた事を述べている*5。また、同研究内で過重労働の対策が平成17年(2005年)の法改正で、メンタルヘルス対策は法改正ではないものの平成12年(2000年)に示された心の健康に関する指針を皮切りとしていることが述べられているが*6、直近でも平成31年(2019年)4月に関連する法改正が行われている。
では、成立期と現在の間でどのような社会的変化があったのか。1980年代末以降、日本は一時的にバブル景気を経験したものの、平成3年(1991年)にその崩壊を迎えて以来、日本の景気は低迷しているといわれている。そして1990年代中頃以降、所謂「就職氷河期」時代に突入し、非正規雇用の労働者が増加したという変化があった。その結果、好景気時よりも少数となった正規社員への負担はその分増え、先に述べた高度経済成長期とは別事由で長時間労働を常態化させることとなっていたようである。
ここで、過労死と精神障害の労災件数を見てみたい。表2、3は川人氏の過労死・過労死自殺の研究資料から引用*7しているが、①過労死等の件数は昭和63年(1988年)以降徐々に増加傾向にあり、②過労自殺を含む精神障害の件数は平成7年(1997年)から増加の幅が大きくなっていることがわかる。

表2

表3

自明ではあるが、長時間労働(過重労働)は心身への悪影響を与える。厚生労働省が定める過重労働の基準は、時間外・休日労働が月100時間超、または2-6か月平均で月80時間超となることとしている。そのような基準を踏まえたうえで表2と3からうかがい知れることは、過酷な労働環境が現実として存在していること、また、こうした問題を踏まえて出される法改正や追加規定から明るみになってきたということである。先に述べた平成31年の法改正では、①すべての労働者(管理監督者含む)の労働時間の適正な把握を事業主へ義務化(第六十六条の八の三)②産業医による勧告の強化(第十三の5)③長時間労働の面接指導基準が「時間外・休日労働時間80時間超/月」へ引き下げ(第六十六条の八)が主要な改正点としてあげられる。このような改定から問題を問題として認識し、労働者自らが過酷な環境を訴えることができるようになるのだ。そのようにしてみると、法改正によってその問題からある種自衛を促すような点は、安全や健康といった労働者も使用者も平等に守るべきものについて規定をする安衛法の特有の性格として見えてくるのではないだろうか。

3、未来の安衛法の姿

以上、安衛法の成立と改定の背景を眺めてきたわけであるが、やはり安衛法という法律の目的上、社会情勢反映の性格は強い。そのため、安衛法の未来の改定や方針の予測という面では他の法律よりもある程度ハードルが低いのではないかと考える。
例えば、昨今様々な場面で触れる「SDGs」という言葉に注目してみたい。そもそもSDGs(Sustainable Development Goals)は「持続可能な開発目標」と和訳され、2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標のことであり、17のゴールと169のターゲットで構成されている。この目標の中に「8.働きがいも経済成長も」というものがあり、これはまさに、安衛法の目的と重なる要素であるだろう。
産業医科大学の永田氏によると、この目標8において労働安全衛生が重要な一要素であることを示したうえで、「3.すべての人に健康と福祉を」のグローバル指標には先に述べた過労死・過労死自殺問題に関連がある心血管疾病の死亡率や自殺率の記載もあることから、これらは安衛法の健康診断、メンタルヘルス対策への関連があると述べている*8。つまり、安衛法においても今述べた目標に重点が置かれた改定が今後期待されるのではないだろうか。そして、この目標が現在世界規模で認識され取り組まれていることを踏まえると、日本の安衛法はもはや日本だけの背景や社会状況を反映した姿になるのではなく、世界の状況を映した、世界水準の法律になる未来も見えてきているのではないだろうか。

4、おわりに

本節では、労働安全衛生法が労基法から独立して成立するまでと成立以降、現代まで重要課題として扱われた過重労働問題にかかる法改正の過程を歴史的事実とすり合わせることで、成立や法改正の意味について探ってきた。また、そこからみえてきた安衛法の現地主義的性格から、未来の安衛法の姿についても少し予測を立てた。アメリカの人文学者マーガレット・ミード氏は「未来とは、今である。(The future is now.)」と語ったが、日本の安衛法の背景を追った今、まさにこの言葉が重みを増す。
「今」の社会情勢を反映し、問題を問題であるとして提示する。安衛法の歴史から見えたものは、当時の人々や私たちの「今」の歴史であった。

次節では、男女雇用機会均等法の制定に伴う改正について述べていくこととする。

本文注釈及び引用

*1:(1)第8版268ページ「1労働安全衛生」3-6行目

*2:日本の高度経済成長期は一般的には昭和30年(1955年)頃から昭和48年(1973年)までの実質経済成長率10%におよぶ高度な経済成長を指す

*3:⑵290頁5-8行目

*4:⑶30頁第1表新しい職業性中毒より引用(出展:東田 敏夫『「職場の労働衛生点検と斗争」『賃金と社会保障』』No.603,1972年6月上旬号)

*5: ⑷19頁 6)過重労働政策とリスクアセスメントに関する法改正1-3行目

*6:⑷19頁 6)過重労働政策とリスクアセスメントに関する法改正11-14行目、23-26ページ

*7:⑸21頁

*8:⑺38頁 2.CSR/ESG/SDGsにおける労働安全衛生の位置づけ

 

参考文献

  • 水間 勇一郎『労働法』2007年初版 株式会社有斐閣
  • 山下 隆資『「高度成長」と労働時間・労働強化・労働災害』香川大学経済論叢 香川大学経済研究所 編 44 (3)286-312頁
  • 仙波 恒徳『高度成長と職業病, 労働災害』長野大学紀要 3-4 23-36, 1974-12-25
  • 堀江 正知『産業医と労働安全法の歴史』〈Journal of UOEH 〉2013 年 35 巻 Special_Issue 号 1-26頁 第1部 「産業医制度」産業医と労働安全衛生法の歴史
  • 川人 博『過労死・過労自殺の現状分析と政策的対応(<特集>健康のための社会政策)』URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/spls/4/2/4_KJ00008229609/_pdf/-char/ja

(2023/9/22 18:00最終確認)

  • 外務省設置ホームページ「SDGsとは? | JAPAN SDGs Action Platform |」URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/index.html(2023/9/22 18:00最終確認)
  • 永田 智久『教育講演② ESG/SDGは労働衛生の水準を引き上げるか』2022 年 日本産業保健法学会誌1巻 1号 37-40頁